シン・エヴァンゲリオンを見て、26年にわたるモヤモヤに決着をつける

 

エヴァンゲリオンと言うアニメ作品は、テレビ版(途中打ち切り)、劇場版3作、新劇場版4作が作成され、度重なる公開延期を受けて、26年の時を経てようやく完結しました。

 

特に、最後の作品が公開されるまで、8年も待たされた訳です。

 

「もう、庵野監督の納得するまで、とことん、作り込んでいいよ」

「いつまでも待つからさ…」

 

と、腹を決めてはみたものの、還暦を過ぎたあたりから、早く公開してくれないと、こっちがあの世行になっちゃうよ…という所まで切羽詰まっていました。

 

その本作が、コロナ禍のなか、2021年3月にようやく公開されたのです。

並行して、NHKの『プロフェッショナル』で、本作を手掛けた庵野監督のドキュメンタリーも視聴しました。

 

このドキュメンタリーを見ないと、シン・エヴァンゲリオンの本質は、分からなかったかもしれません。本作は、庵野監督と制作スタッフの間で、激しいぶつかり合いがあり、その結果、脚本の一部をカットされてしまったことを知りました。

 

詳しい話はネタバレになってしまうので、詳細は控えますが、大まかな背景を説明すると、

● ゼーレ…太古の昔より、人類を支配・監視する謎の秘密結社。下部組織のネルフに命令を出して、人類を洗脳して支配下に置こうと暗躍する組織です。

● 使途…これに対し、ゼーレに対抗するために戦いを挑む異形の存在。本作では、悪者のように扱われていますが、聖書にも記載されているように、本来であれば、使途は神様の使いと言う立ち位置です。この関係を理解して見直すと、本作の違った一面が垣間見えます。

● エヴァンゲリオン…ゼーレが使途と戦うために、少年、少女を適応者として養成し作り上げた、ヒト型ロボット。シンクロ率と言う相性が高いほど、戦闘能力が向上します。

● ヴィレ…ゼーレに疑問を抱き、ネルフ組織の部下であった葛城ミサトをチーフとして反旗を翻し、対抗勢力として出来上がった組織

 

主人公の「碇シンジ」は、「怒り」「神(シン)」「子(ジ)」という意味もあるらしい。

 

シンジ君は、テレビ版放映時から、繰り返しエヴァンゲリオンの搭乗する事に対し迷いを抱き、「逃げちゃダメだ」と言う思いが交錯し、戦うかどうか?を悩むことになります。恐らく、ゼーレのやろうとしている事に薄々気付いていて、洗脳される事と親の期待に報いたいという思いの間で、彼の精神は揺れ動き、作品を通じて、終始葛藤する事になります。

 

この思いが、テレビ版・劇場版・新劇場版を通じて、一貫したテーマとして取り上げられています。

 

ところで、NHKの『プロフェッショナル』の中で、庵野監督は、

「いつも、何かが欠けている」と主張していました。

 

実の父親が負った障害を通じて、父親は、常に世の中に対して恨みを持っており、そのはけ口を、子供である庵野監督に向けられていた…と、仰っていました。

 

その為に、内向的な思考になり、最終的には、アニメに傾倒するようになっていきます。

 

そして、自身の中でポッカリと欠けているもの→父親の負った心の傷を…認めてあげたいと語っていました。

 

こうした、親と子の関係性を経て、「インナーチャイルド」という思考を抱えながら、子供は大人へ成長する事になります。殆どのインナーチャイルドは、大人になるにつれ、親離れを経て、こうした葛藤から離脱をして行きます。ただ、一部の方は、虚無感や孤独感を感じて、一般社会に適応しにくくなる精神が芽生えていきます。

 

監督が抱くインナーチャイルドが、具現化された存在が、パイロットの子どもたちなのです。

 

一説には、

●感情を持たず、喜怒哀楽の無い「綾波レイ」と言う女性パイロットが、理想の女性像

●感情的で主人公に対し、批判的な存在の「アスカ」が、失恋相手

●肉感的で一途な存在の、戦闘能力が高いパイロットの「マリ」が、現在の奥さん

 

という設定らしいです。

そうなると、ラストシーンで、シンジ君とマリさんが、恋人同士のように仲が良かった場面も、最初は違和感がありましたが、上記の役回りを見返すと、妙に納得してしまいました。

 

最終的に、庵野監督は、精神的に未熟で、どこか欠けている主要キャラの子供たちを題材として、エヴァンゲリオンと共に消え去る道を選択したことで、自らが負ってしまった、インナーチャイルドと言う親から受けた心の傷を、全て霧散霧消しようとしたのだと思います。

 

でも、本作に終止符を付けた事で、庵野監督は、本当にインナーチャイルドから脱却する事が出来たのでしょうか?

 

実は庵野監督は、本作が完成した後、その作品を見ようともせず、すぐ次の作品に取り掛かったそうです。何かに集中していないと、居ても立ってもいられないのは、インナーチャイルドの特徴でもあります。

 

恐らく、作品を作り続ける事こそ、自らの贖罪と癒しに繋がっているのだと思います。

 

以前のブログでもご紹介した、『岡本太郎は、やっぱりスゴイ』でも感じましたが、芸術家は、作品を作り続ける事で、まだ完全には解放されていない「自己」を表現し続ける存在なのだと思います。

https://www.nakajomotoo.com/nichijo-20201230-4/

 

終劇近くで、ようやく親子は対峙し、父ゲンドウは、息子シンジに、自らの心の内を話し始めます。そこには、奥さん(シンジの母)である、ユイさんへの愛情と、もう一度会いたい…と言う執着でした。

 

ヒトは、誰しも、最愛の人との死別を経験します。どうしようも無く悲しい経験をして、もう逢えない…事を乗り越えて、

 

「シン」の大人へと成長して行きます。

 

ユイにもう一度会いたいという執着と愛情、そして、孤独感。

父ゲンドウもまた、インナーチャイルドだったのだと思います。

 

これに対し、子シンジは、見事、大人への変貌を遂げた事が、ラストで描かれます。

長い長い旅路を経て、見事に大団円を迎えた手腕はさすがでした。これからの、大人シンジさんに、幸あれと願いながら、エンドロールと共に、宇多田ヒカルさんの歌を聴きながら、私と私の家族との26年の歳月を思い返していました。